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第1回 蜜の木の粒(大きな闇と小さな闇はとても近い)

 

私たちは消えた村に残ってその土を掘り続ける。

やがてその掌は深い水脈へと達して、暗い水際に無限の星空が反射するのだ。

 

 

 三重県伊賀上野の小さな町から田舎暮らしに憧れる家族に連れられて親戚のいる隣村の旧島ヶ原村に引っ越して来たのは小学3年生の春だった。それから私はこの村にある多くの自然のエレメントに触れながら大きくなったが、中学3年生のある日「数年後に市町村合併で村がなくなる」ことを知った。私は故郷が、私の大切なものが消えてしまうような、何だか泣けたような気持ちになって「村の心のようなものがあるのなら、村が消えてしまっても村の心にずっと触れることのできる大人になろう。自分が芸術家になって絵で村を守り続けたい」と思うようになった。それから独学で絵の勉強をして中学校の空き教室で個展を開くようになった。

 

2004年11月 市町村合併で島ヶ原村は消滅。名称は伊賀市島ヶ原に変更される。

 

 月日の流れはあっという間であれから7年が経った。2011年3月11日、ドイツに留学していた私は遠くの日本で起きた大震災を知る。それを発端とした原発問題。敗戦から70年間、経済優先の大成長をつづけてきた日本社会の深刻な歪みが至る所で噴出しはじめていた(これは今回突然表れたものではなくて、私たちが物心つきはじめた90年代前半のバブル崩壊、阪神大震災とオウム事件、2000年前半のニューヨークでのテロ事件を発端とするグローバルとローカルの果てしなき戦い、小泉改革による村の消滅につづく道筋でもあった)そして、今を生きる日本の大人たちは自分の生活で手一杯で休日は家族サービスや趣味に忙しい。若者たちはそんな戦後の大人たちが敷いた見えないレールに乗ってリスクを犯さずに進んで行く群れのようになってしまった。勿論それは都会だけの問題ではなく、地方社会の疲弊も深刻である。産業や農業を支える若者のいなくなった共同体の森は境界を失い、獣たちが里を徘徊するようになる。冷たい夜には疲れ切った終電の1両列車だけが村を青白く照らしている。

 

 2012年5月に故郷に帰国した私は、村の外れで廃墟になっていた一軒の鉄筋小屋を見つける。聞けば10年ほど前に絵を描いていた村の郵便局員さんが自力で建てたアトリエらしい。彼はもういないが「絵好住(エコノミークラス)」と書かれたその場所には、彼が描いた素朴な村の風景画が何枚も残されていた。村はなくなってしまったけど、森の木の実や峠のお地蔵さん、田んぼの稲に春を呼ぶ古い祭りは今でもこの土地に残っている。ローカルやドメスティックの彼方にあるものは逆にずっと普遍的な宇宙なのだ。

 私は「3.11」直後から、この「消えた村」に残った若者たちのよる「ローカルの美学」を探求する野のクリエイティブ集団のようなものを作ろうと密かに考えていた。それは既成の村おこしや地域再生計画とは異なり、「故郷」の風土を軸に(貧困や土着の情念、地方社会の掟に縛られた)若い土人たちの故郷への執着の創造力が領域を横断し荒廃したすべての世界の変換を試みるささやかな活動である。  帰国後、村に残っている同級生たち数名と会議を重ねて〈島ヶ原村民芸術「蜜の木」〉というグループ名称が決まった。(以降「蜜の木」と記載)名前の由来は村のシンボルである旧小学校運動場のヒノキの「木」と、自然の恵みを表す樹液の「蜜」によるものである。

 これから「村」を舞台にこの土地に眠る無名の文化を掘り続け、それらを新しい世界の価値として発信していく作業を皆で地道に進めていきたい。そして「蜜の木」はアートとかデザインとか、そういう月並みな言葉を越えていくためにある。だから未知のクリエイターたちの「芸術」は世界に浸食するエネルギーを持っていると思う。つまり私は村の深い水に溶けて消えてもいいのだ。

  

岩名泰岳(美術家・島ヶ原村民芸術「蜜の木」代表)

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