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第2回 島ヶ原村史による正月堂修正会

 

昭和58年2月28日 発行された「島ヶ原村史」。今や、インターネットで「島ヶ原 正月堂 修正会」と調べれば色々な方が紹介してくれています。写真や動画などでも紹介されているので、どのような行事なのか?どのような模様なのか?など調べるとすぐにわかります。今回のウェブマガジンは「島ヶ原村史」に遺されている当時の「島ヶ原村 正月堂修正会」についてとなります。現在の行事の模様や、紹介などは島ヶ原村民芸術「蜜の木」のFacebookをご覧ください。

 

正月堂の修正会は修正会という貴族的な行法と大餅会式と呼ばれている庶民的な行事が古くから融合している。行法中しばしば導師の〝乱声〟の掛け声に応じて法螺・太鼓・鐃(カネドラ)・拍子木を乱打する。乱声の行事も非常に訛った形であり平安期の初期から日本人の持っていた古い伝統文化を伝えている。

 

行事のことのはじめは、12月13日から始まっている。現存する9組の各講社(馬宿・中村堂・一聖講・西方・東方・西浦堂・元頭村・大道方・中矢方)では12月13日に三人乃至五人の長老(おとな)と頭屋の主人及び親戚が集まって、うすどり、火たき、水汲等の役割と今後の行事の運営をする(しょたいにん)二人を決める。これを事始め又は口開けといっている。

 

正月四日

道具調べがある。餅搗きに使用する杵、おけがわ等を用意し、はしかきは樫の木で笏を造る。このときは世帯人(しょたいにん)と親戚だけで、おとな(三人乃至五人の長老)は立ち合わない。

  六日

お水とりと米かしが行われる。米かしは正月堂の閼伽井から水と松明をもらい、潔斎して大餅(だいひょう)の米を研ぐもので、大餅つきに関する一切の行事は総て女人禁制である。

  七日

この行事のうちで最も厳粛な大餅つきで各頭屋では床のある部屋の前庭に四本の竹をたて、七五三縄を廻らして、直径一寸五分長さ五尺くらいの桜、ほその木等の十本杵で伊勢音頭を歌いながら平年は12人、うるう年は13人で搗き上げる。

  九日

今年の五穀の豊鐃と除厄を祈る餅上げの行事が行われるである。このことを土地で『せきのと』と称んでいる。 

えとう、えとうの掛け声勇ましく九ッの講社から正月堂へ上がって来る。行列の出発に当たって、五人の長老の前で来年の頭屋を決める頭さしの行事がおこなわれる。講社一同頭屋の前に列を整え 

「一に俵踏まえて・二ににっこり笑ふて・三にゃ酒つくって・四ッ世の中よいように・五ッいつものごとくに・六ッ無病息災に・七ッなにごとないように・八ッ屋敷ひろめて・九ッこぐらをたて並べ・十でとんと納めた。」

と唄い終わって出発する、献餅の際にも金堂の中でまたこの唄をうたって餅上げ行事を終わる。

  十日

正月堂の御行(おこない)結願法要で金堂内の本尊厨子前で厳修される。

 

修正会の次第は、中央に大導師、左に護摩師、右に十一面共の密師、導師の背後には呪師、堂司、承仕の各僧が着座し、左側に神官、正面入口に頭屋、その後に明頭(来年の頭屋)が居並ぶ。

 

まず、神官が大中臣の祓を奏上し三面及び大衆を払い終わると行法に移る。珍しいのは練行衆が般若心経を誦しながら差懸(木履)を履いて行道しながら牛玉杖で本尊の厨子裏乱打する「ほその木驚覚法」である。最後に牛玉加持の偈が終わると大餅の1枚が堂番から頭屋に渡される。これが明頭の家で講社一同に預けられて厄除けになる。この修正会の全体を通じていい得ることは古来のままの伝承ではないが、かなりよく昔の姿を遺しているということである。この後、達陀の行法が修せられることとなった。

 

修正会の根本は正月神に餅を供えるという神事であろう。それに附着した乱声的、驚覚法的なにぎやかさは、悪鬼悪霊を大声をあげ、大音をたてて追出し、正月神を迎える追儺の行事にも通ずるものであり、悪鬼退散の後に、正月神を迎えて、大餅を供えるという素朴な民間信仰が源流にあるようである。

 

民族芸能・民俗行事は古昔の姿を、かたくなに守りとどめる一方では、また簡単に他の地方のものを模倣し、伝播し、附着しうる性質のものである。

 

現在、こども修正会というものがあり、島ヶ原の小学生も参加している。参加した子供たちが今後の島ヶ原の正月堂修正会を受け継いでいくのであろう。

 

故郷に居ると1つの行事でも様々なことが視えてくる。聴こえてくる。

 

去る者。帰って来る者。伝える者。受け継ぐ者。護る者。

 

私は何処へ向かうのだろう。

 

 

東 豊崇 ( 島ヶ原村民芸術「蜜の木」メンバー)

 

写真提供:島ヶ原観光協会

HP: http://shimagahara.igaueno.net/

 

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